ブルージーンズ Another Story|始まらなかった恋が、終わるまで

ブルージーンズ
Another Story

――始まらなかった恋が、終わるまで。
幼馴染だった二人。
久しぶりの再会をきっかけに、止まっていた時間が再び動き出す。

けれど汰一が撮ることになったのは、
大好きだった彼女の「幸せになる瞬間」だった。
CHARACTER

登場人物

TAICHI

汰一

26歳

歌手を目指しながらアルバイトを続け、フリーのカメラマンとしても活動している。

黒縁メガネに黒髪のパーマ風ヘア。黒のレザージャケット、白のタートルネック、黒のスキニーパンツが定番。

美奈とは幼い頃からの幼馴染。高校卒業後は会う機会も減っていたが、胸の奥にはずっと彼女への想いが残っていた。

MINA

美奈

26歳

現役モデルとして活動している汰一の幼馴染。

短めのお団子ポニーテールに、白のレースブラウスと水色のブルージーンズが印象的。

数年前から交際している恋人がおり、最近はなんとなく「そろそろプロポーズされるかもしれない」と感じている。

久しぶりに再会した汰一へ「今度、私を撮ってほしい」と頼むが、その言葉にどこまでの意味があったのかは――。

01|再会

26歳になった汰一は、歌手を目指しながらアルバイトを続けていた。

その傍ら、知人から頼まれたポートレートやライブ写真を撮る、 フリーのカメラマンとしても活動している。

音楽も。

写真も。

好きだから続けている。

だけど、どちらかひとつで食べていけるほど、 現実は甘くなかった。

ライブの帰り。

終電間際。

ギターケースを背負いながら歩いていると、 ふと考えてしまう。

自分は、一体いつまでこんな生活を続けるんだろう。

それでも辞められない。

辞めた自分を想像する方が、怖かった。

* * *

そんなある日の夜。

汰一は知人のライブを見るため、 カフェバー「SPOT」を訪れていた。

小さなステージ。

暖色の照明。

カウンターにはグラスが並び、 ステージでは知らないシンガーが恋愛の歌を歌っている。

汰一は店内の隅で酒を片手に、 その歌をぼんやり聴いていた。

ライブが終わった頃。

出演者や客が入り混じる店内で、 後ろから声がした。

「……汰一?」

一瞬、時間が止まったような気がした。

振り返る。

そこにいたのは――

美奈だった。

SPOTで久しぶりに再会する汰一と美奈
久しぶりの再会。――SPOTにて。

「え?」

「やっぱり汰一じゃん!」

昔と変わらない声。

でも。

昔より少しだけ大人になった顔。

汰一は数秒、美奈を見つめてしまった。

「……久しぶり」

「何年ぶり?」

「分かんない。結構経ってるだろ」

「相変わらずメガネなんだ」

「そこ?」

二人で笑った。

たったそれだけなのに。

胸の奥に、昔の時間が一気に戻ってきた。

近所に住んでいた幼馴染。

学校帰り。

コンビニ。

公園。

夏祭り。

どうでもいいことで喧嘩して、 次の日には何事もなかったみたいに話していた。

高校を卒業してから、それぞれ別々の生活を始めた。

少しずつ連絡が減って。

気づけば、会わなくなっていた。

「まだ歌やってるんだ?」

「まだって言うなよ」

「だって昔から言ってたじゃん。歌手になるって」

「一応、現在進行形」

「すごいじゃん」

美奈はそう言って笑った。

その笑顔を見た瞬間。

汰一の中に、 ずっと触らないようにしていた何かが動いた。

昔、好きだった。

いや。

たぶん、違う。

昔からずっと、好きだった。

時間が経ったから。

会わなくなったから。

もう終わった感情だと思っていただけだった。

話の流れで、 汰一がカメラマンとしても活動していることを話す。

「じゃあ今度、私撮ってよ」

「俺が?」

「うん」

「モデルさんなんだから、 もっと上手いカメラマンいるだろ」

「でも、汰一に撮ってほしい」

その言葉だけで。

汰一はまた、少し期待してしまった。

「……いいよ」

「やった」

美奈は嬉しそうに笑った。

その笑顔の意味を、汰一は考えないようにした。

02|ブルージーンズ

数週間後。

二人は都内でポートレート撮影をすることになった。

白いレースのブラウス。

水色のブルージーンズ。

黒いパンプス。

昔から美奈は、青が似合った。

久しぶりに美奈を撮影する汰一
ファインダー越しなら、ずっと見ていられた。

「もうちょっと右向いて」

「こう?」

「そう。そのまま」

シャッターを切る。

カシャ。

ファインダーの向こうで美奈が笑う。

カシャ。

「何?」

「いや」

「今絶対、変な顔してたでしょ」

「してないって」

「嘘」

また笑う。

カシャ。

PHOTOS BY TAICHI

――その日、汰一のファインダーに映っていた美奈。

美奈にとっては、いつものモデル撮影。
けれど汰一にとっては、少し違っていた。

写真を撮っている間だけ。

汰一は堂々と、美奈を見ることができた。

目を見る。

髪を見る。

笑顔を見る。

その全部を。

「カメラマンだから」という理由で。

この時間が、ずっと続けばいいのに。

撮影が終わる頃。

夕方の光が差していた。

美奈が振り返る。

「汰一」

「ん?」

「今日楽しかった」

「俺も」

「また撮ってね」

「いつでも」

汰一は答えた。

――いつでも。

その言葉に。

自分だけが別の意味を込めていることを分かっていた。

それから二人は、 以前より少しずつ連絡を取るようになった。

仕事の話。

昔話。

どうでもいい動画。

今日食べたもの。

美奈からメッセージが届くたび、 汰一は少し嬉しくなった。

期待するな。

何度もそう思った。

幼馴染だから。

久しぶりに会ったから。

撮影して仲が戻っただけだから。

分かっている。

それでも。

人間は、 可能性がゼロじゃないと思った瞬間に、 勝手に未来を作ってしまう。

もし付き合えたら。

もし一緒に暮らしたら。

もしライブを見に来てくれたら。

もし。

もし。

03|「結婚することになった」

ある日の夜。

美奈から電話が来た。

「もしもし?」

「汰一?」

「どうした?」

「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

「また撮影?」

「うん。撮影」

美奈が少し笑う。

「結婚式の写真、撮ってほしくて」

汰一は何も言えなかった。

「……え?」

「私、結婚することになった」

音が消えた気がした。

「この前、プロポーズされたの」

嬉しそうな美奈の声。

「そうなんだ」

自分でも驚くくらい、 普通の声が出た。

「おめでとう」

言えた。

ちゃんと言えた。

美奈はそのまま、 指輪の話をする。

式場の話。

ドレスの話。

彼との話。

これからの生活の話。

汰一は時々、

「へえ」

とか。

「いいじゃん」

とか。

「楽しみだな」

とか。

そんな言葉を返した。

電話の最後。

「汰一に撮ってもらえたら嬉しい」

少しだけ沈黙した。

「……俺でいいなら」

「汰一がいい」

また、その言葉だった。

汰一には分からなかった。

それがただ幼馴染としての信頼なのか。

何か別のものが、 ほんの少しだけ混ざっていたのか。

もう確かめる意味もなかった。

「分かった」

「めちゃくちゃ綺麗に撮ってやるよ」

美奈が笑った。

「ありがとう」

電話が切れる。

部屋が静かになる。

汰一はしばらく、 スマートフォンを握ったまま動かなかった。

涙も出なかった。

ただ。

何か大切なものが終わったということだけが分かった。

壁に立てかけてあった、 アコースティックギターが目に入る。

汰一はそれを手に取った。

椅子にも座らず。

コードも考えず。

ただ、弦を鳴らした。

結婚を知らされ、一人部屋でギターを鳴らしながら泣く汰一
一度も始まらなかった恋が、終わった夜。

ジャーン。

もう一度。

ジャーン。

荒く。

強く。

ガシャッ。

ガシャッ。

ガシャッ。

弾きたい曲なんてなかった。

歌いたい歌もなかった。

ただ、何か音を出していないと。

自分の中から、 別の何かが出てきそうだった。

「……なんだよ」

ガシャッ。

「なんで今なんだよ」

声が震える。

「何年も会ってなかったじゃん」

ガシャッ。

「なんでまた会ったんだよ」

涙がギターに落ちる。

「なんで……」

そこで初めて。

汰一は声を上げて泣いた。

26歳。

いい大人が。

子どもみたいに。

好きだった人が結婚する。

ただ、それだけのことで。

でも汰一にとっては。

一度も始まらなかった恋が、
ようやく終わった瞬間だった。

04|披露宴

数ヶ月後。

結婚披露宴当日。

カメラを首から下げた汰一は、 仕事として会場に立っていた。

ウェディングドレス姿の美奈。

今まで何度も美奈を撮った。

でも。

今日の美奈が、一番綺麗だった。

そして。

一番撮りたくなかった。

「美奈、こっち」

ファインダーを覗く。

新郎が美奈の肩を抱く。

美奈が笑う。

カシャ。

また笑う。

カシャ。

二人が目を合わせる。

カシャ。

幸せそうだった。

悔しいくらい。

心から。

幸せそうだった。

――勝てないな。

そういう問題じゃないことも分かっている。

誰かと誰かが結ばれることに、 勝ちも負けもない。

でも。

自分が一度も見ることのできなかった表情を。

美奈は彼の隣でしていた。

その事実だけで十分だった。

* * *

披露宴が終わる。

客も少しずつ帰り始めた頃。

美奈が汰一のところへ来る。

結婚披露宴で向き合う汰一とウェディングドレス姿の美奈
言えなかった言葉の代わりに。

「今日は本当にありがとう」

「おう」

「写真、楽しみ」

「任せろ」

「やっぱ汰一に頼んでよかった」

一瞬だけ。

美奈が昔と同じ顔で笑った。

近所に住んでいた頃の。

高校生の頃の。

何も知らなかった頃の。

その笑顔を見て。

汰一の目に涙が浮かんだ。

美奈が気づく。

「……汰一?」

「いや」

汰一は下を向く。

一度、目元を拭う。

そして。

涙を浮かべながら、 無理やり笑顔を作った。

「幸せになれよ」

美奈は少し驚いた顔をする。

「……うん」

短い沈黙。

「ありがとう」

それだけだった。

だけど。

なぜか美奈も、 少し泣きそうな顔をしていた。

理由は聞かなかった。

聞けなかった。

もしかしたら。

ただ結婚式が終わって、 感傷的になっていただけかもしれない。

もしかしたら。

幼馴染との時間を思い出しただけかもしれない。

それとも。

ほんの少しだけ。

汰一と同じような気持ちを、 昔どこかで持っていたのかもしれない。

もう分からない。

そして。

分からないままでよかった。

「美奈ー!」

遠くから新郎の声がする。

「今行く!」

美奈が振り返る。

そして数歩歩いてから、 もう一度だけ汰一を見る。

「じゃあね、汰一」

汰一は笑う。

今度は少しだけ、自然に。

「じゃあな」

美奈は新郎のもとへ走っていった。

その後ろ姿を。

汰一はもう、写真には撮らなかった。

ただ。

自分の目で見送った。

Epilogue|残った一枚

その日の夜。

汰一は一人、 部屋で撮影データを整理していた。

ウェディングドレス。

指輪。

ケーキ。

家族。

友人。

新郎と美奈。

何百枚もの写真。

そして作業の途中。

以前撮ったフォルダを開く。

そこには。

白いブラウス。

水色のブルージーンズ。

夕方の光の中で笑っている美奈がいた。

あの日、汰一が撮ったブルージーンズ姿の美奈
あの日、ファインダー越しに見ていた美奈。

汰一はその写真を、 しばらく見つめる。

ウェディングドレス姿より。

汰一には、 この美奈の方が美奈らしく見えた。

「……幸せになれよ」

今度は誰にも聞こえない声で呟く。

涙が一粒だけ落ちた。

でも。

汰一は少し笑っていた。

美奈を好きだったことを。

後悔したくなかった。

叶わなかったことより。

好きになれたことを。

いつかちゃんと、 大切な思い出にできればいい。

汰一はパソコンを閉じる。

部屋の隅には、 アコースティックギター。

しばらく眺めてから。

もう一度、それを手に取る。

今度は、乱暴には鳴らさなかった。

静かにコードを鳴らす。

そして。

まだ名前のないメロディを、 小さな声で歌い始めた。

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『ブルージーンズ (feat.MaRU) Another Story』

※本作は楽曲「ブルージーンズ (feat.MaRU)」から着想を得た フィクションストーリーです。登場人物・設定・物語は創作です。

8時12分の向かい側|満員電車で始まった、ほんの数センチの恋

8時12分の向かい側

――ほんの数センチから始まった、二人の物語。

朝8時12分。

いつも乗る電車は、今日も笑えるくらい混んでいた。

笑える、と言っても、もちろん楽しいわけじゃない。

ホームに電車が入ってきた瞬間から、人が一斉に扉へ集まる。

開く。

押される。

乗る。

また押される。

俺はどうにかドアから少し奥まで入り、吊り革をひとつ確保した。

これだけで朝の小さな勝利だった。

次の駅。

また扉が開く。

さらに人が乗ってくる。

背中を押される。

半歩前へ。

さらに押される。

もう半歩。

「うわ……」

そのとき、初めて真正面の座席に座っている女性に気づいた。

若い。

たぶん俺と同じくらい。

ベージュのコート。

細身の青いデニム。

イヤホンを耳につけ、スマホを見ている。

そして何より。

脚が長かった。

座っていても分かる。

脚を組んでいるせいもあって、膝がかなり前まで出ていた。

俺は心の中で思った。

近い。

かなり近い。

とはいえ、彼女が悪いわけじゃない。

俺が後ろから押されているだけだ。

最初はまだ、拳ひとつ分くらいの距離があった。

ところが。

電車がカーブに入った。

車体が大きく揺れる。

後ろの人たちの身体が、一斉に前へ流れた。

俺も押された。

数センチ。

本当に、それだけだった。

コツ。

彼女の膝が俺の身体に当たった。

満員電車で彼女の膝が当たった決定的な瞬間
――ほんの数センチ。すべては、この瞬間から始まった。

「……っ」

反射的に身体を引こうとする。

けれど無理だった。

後ろには人。

左右にも人。

彼女の膝が当たった場所が、また何とも言えず気まずい位置だった。

股のすぐ近く。

少しずれてはいる。

でも意識しない方が無理だった。

俺は吊り革を握る手に力を入れた。

彼女はスマホを見ている。

気づいてない?

いや。

たぶん気づいている。

そう思った直後。

彼女の視線がゆっくり上がった。

目が合う。

「……」

「……」

一秒。

たぶんそのくらい。

でも妙に長く感じた。

彼女の目が少しだけ大きくなる。

そして自分の膝を見る。

「あ……」

口が小さく動いた。

たぶん「すみません」だった。

彼女は脚を少しだけ引こうとした。

でも両隣にも人が座っている。

長い脚。

狭い車内。

完全には離れない。

ガタン。

また揺れた。

コツ。

再び当たった。

「…………」

俺は天井を見た。

見る場所がなかった。

真正面には彼女。

下を見るのはもっと気まずい。

横には人。

だから吊り革の広告を読んだ。

何度も読んだ。

たぶん人生で一番広告を真剣に読んだ朝だった。

数駅後。

人が少し降りた。

俺はようやく半歩後ろへ下がることができた。

距離が空く。

ほっとした。

同時に。

ほんの少しだけ。

妙な寂しさもあった。

何考えてるんだ俺。

彼女はその次の駅で降りた。

立ち上がった瞬間、思った。

やっぱり高い。

俺より明らかに高い。

175センチはある。

扉へ向かう途中。

一度だけ振り返る。

目が合った。

俺はなんとなく会釈した。

彼女も、小さく会釈した。

それだけだった。

本来なら、それで終わる。

満員電車の中で起きた、ただの偶然。

名前も知らない。

仕事も知らない。

二度と会わなくてもおかしくない。

* * *

翌朝。

8時12分。

同じ電車。

同じ車両。

「……あ」

いた。

昨日の女性。

ほとんど同じ席。

今日は脚を組んでいなかった。

俺に気づく。

少し目を丸くする。

そして。

ほんの少しだけ笑った。

俺も会釈した。

その日は、あえて彼女の正面には立たなかった。

少しずれた場所。

翌日。

またいた。

さらに翌日。

またいた。

一週間もすると、俺たちはお互いの顔を完全に覚えていた。

話したことはない。

名前も知らない。

なのに朝になると、俺は無意識に彼女を探すようになっていた。

今日はいるかな。

いた。

それだけで少し安心する。

いない。

なぜか少し気になる。

休みかな。

寝坊したのかな。

一本早い電車かな。

そんなことを考えている自分がおかしかった。

ある朝。

彼女の真正面しか空いていなかった。

俺はそこに立つ。

彼女は今日も脚を組んでいた。

目が合う。

二人とも、少し笑う。

その直後。

電車が揺れた。

コツ。

また膝が当たった。

彼女がイヤホンを片方外す。

「……またですね」

「え?」

聞き返したけど、ちゃんと聞こえていた。

「前も、こんな感じでしたよね」

「ああ……」

恥ずかしさが蘇る。

彼女が少し笑った。

「すみません。私、脚長いから」

「それ謝るところですか?」

「邪魔じゃないですか」

「満員電車なんで、俺も逃げられないですし」

「私も逃げられないです」

二人で笑った。

それだけだった。

でも。

その日から全部変わった。

翌朝。

「おはようございます」

彼女から。

「おはようございます」

その翌日。

「今日すごい混んでますね」

「月曜だからじゃないですか」

「今日火曜ですよ」

「あ」

笑われた。

また数日後。

今度は俺が座って、彼女が立っていた。

「今日は逆ですね」

「じゃあ今日は私が吊り革担当ですね」

「今日は膝ないから安全ですね」

「まだ気にしてるんですか?」

「忘れられないですよ」

「言い方」

そんな会話が増えた。

名前も知った。

美咲。

26歳。

会社員。

身長176センチ。

俺より10センチ高い。

「やっぱ176あるんだ」

「やっぱって何」

「高そうだと思ってた」

「そっちは?」

「166」

「かわいい」

「やめろ」

「なんで?」

「男にそれ言う?」

「私は言う」

よく笑う人だった。

電車の中では少し大人しく見えたのに、話すようになると印象が全然違った。

連絡先を交換したのは、それから一週間後だった。

遅延がきっかけだった。

「こういう時、連絡取れたら便利ですよね」

美咲が言った。

「じゃあ交換します?」

一瞬。

早かったかな。

そう思った。

でも美咲は普通にスマホを出した。

「いいですよ」

そこから、朝だけの関係ではなくなった。

『今日一本前』
『裏切ったな』
『寝坊しそうだったから笑』
『それ逆じゃない?』
『明日は8:12います』

夜にも連絡するようになった。

『仕事終わった』
『俺も』
『お疲れさまです』
『敬語いらなくない?』
『じゃあお疲れ』
『急に雑』

それからしばらくして。

金曜日。

美咲からメッセージが来た。

『今度、普通にご飯行かない?』

画面を見た。

5秒。

いや、たぶん2秒。

『行く』

すぐ送った。

その後。

ちょっと必死すぎたかなと思って、

『いつ空いてる?』

を付け足した。

* * *

初めて休日に会った日。

改札前。

遠くから美咲が歩いてくる。

改めて思う。

でかい。

「……でか」

口に出ていた。

「第一声それ?」

「いや、知ってたけど」

「最低」

「褒めてる」

「どこが」

でも笑っていた。

カフェ。

映画。

ご飯。

気がついたら夜。

帰り際。

「じゃあ月曜」

美咲が言った。

「明日は?」

「え?」

「明日は会わないの?」

「会いたいの?」

「嫌ならいいけど」

美咲は少し黙った。

そして。

「会う」

次の日も会った。

そこから、休日にも会うようになった。

朝8時12分しか知らなかった相手が、少しずつ生活の中へ入ってくる。

好きになるのに、そんなに時間はかからなかった。

数ヶ月後。

駅のホーム。

美咲が言った。

「最初さ」

「うん」

「私たち、出会い方最悪じゃない?」

「最悪だね」

「膝当たって始まってるからね」

「しかも複数回」

「ほんと恥ずかしかったんだから」

「俺もだよ」

少し間。

美咲が言う。

「でも途中から、朝楽しみだった」

「俺も」

「いるかなって探してた」

「俺も」

また少し沈黙。

「じゃあさ」

「ん?」

「これからも毎日探す?」

俺は少し考えた。

「どういう意味?」

「付き合うって意味」

「そっちから言う?」

「ダメ?」

「いや」

俺は笑った。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

* * *

その日から、恋人になった。

最初は何をするにも少し緊張した。

手をつなぐ。

肩に触れる。

美咲が俺にもたれる。

キスをする。

全部が新しかった。

初めて二人で朝まで過ごした夜も、派手なものではなかった。

映画を見て。

話して。

気がつけば距離がなくなっていた。

その夜、二人は恋人としてさらに深い関係になった。

翌朝。

目を開ける。

隣を見る。

美咲が寝ている。

あまりにも普通に。

そこにいる。

俺は笑ってしまった。

「……何?」

美咲が目を開ける。

「いや」

「見てたでしょ」

「見てない」

「絶対見てた」

「寝顔でかいなと思って」

「最低」

枕が飛んできた。

幸せだった。

本当に。

たぶん人生で一番。

だから。

壊れ始めた時のことを、俺はしばらく認められなかった。

* * *

付き合って二年目。

美咲に転勤の話が出た。

大阪。

最低でも二年。

「断れないの?」

聞いた瞬間。

言わなきゃよかったと思った。

美咲は少し困った顔をした。

「断れなくはない」

「じゃあ」

「でも、私ずっとこの仕事やりたくて」

言葉が止まった。

知っていた。

美咲が仕事を好きなこと。

昇進のチャンスだったこと。

そのために何年も働いていたこと。

「そっか」

それしか言えなかった。

その夜。

二人ともあまり話さなかった。

数週間。

喧嘩が増えた。

本当は喧嘩したいわけじゃない。

寂しいだけだった。

「最近冷たくない?」

美咲が言った。

「別に」

「別にって何」

「仕事忙しいんだろ」

「だからって」

「大阪行く準備もあるじゃん」

「その言い方やめて」

「どの言い方」

「私が勝手に決めて全部壊したみたいな」

胸が痛かった。

でも素直になれなかった。

「実際行くんだろ」

言ってしまった。

美咲の顔が変わった。

「……それ、本気で言ってる?」

もう戻れなかった。

「俺より仕事選ぶってことじゃん」

静かになった。

美咲はしばらく何も言わなかった。

そして。

「最低」

泣いていた。

「私、そういうこと一度でも言った?」

俺は黙った。

「一緒にいたいよ」

美咲の声が震える。

「ずっといたいよ。でも仕事だって大事なんだよ」

「……」

「あなたが何か本気でやりたいことを見つけたら、私は応援したい」

胸が痛む。

「なのに私が何か選ぼうとしたら、捨てるの?」

「違う」

「何が違うの」

何も言えなかった。

美咲は泣きながら言った。

「好きなのに」

その一言だけで、胸が張り裂けそうだった。

「こんなに好きなのに、なんで一緒にいるだけじゃダメなんだろうね」

その夜。

美咲は帰った。

翌朝。

8時12分。

俺はいつもの電車に乗った。

美咲はいなかった。

その次の日も。

その次の日も。

連絡もしなかった。

できなかった。

そして一週間後。

メッセージが届いた。

『大阪行くことになった』

しばらく画面を見た。

『そっか』

それだけ送った。

返信はなかった。

数日後。

最後に会った。

駅のホーム。

最初に告白した場所。

美咲は静かだった。

「じゃあ」

「うん」

「元気でね」

「美咲も」

それだけ。

美咲が歩き出す。

俺は呼び止めたかった。

好きだと言いたかった。

行かないでと言いたかった。

でも。

言えなかった。

扉が閉まる。

電車が動き出す。

窓越しに美咲が見える。

泣いていた。

俺も。

初めて人前で泣いた。

翌朝。

8時12分。

いつもの席は空いていた。

人はたくさんいる。

満員電車。

いつも通り。

なのに。

あの席だけ、世界から切り取られたみたいに見えた。

美咲がいなくなり、いつもの席が空いている朝
――人はあんなにいるのに、あの席だけが不自然なくらい空いて見えた。
* * *

三ヶ月。

半年。

連絡はほとんどしなかった。

でも削除はできなかった。

写真も。

メッセージも。

ある夜。

スマホが鳴った。

美咲だった。

『今日、8:12の電車乗った』

一瞬意味が分からなかった。

『大阪で?』

『うん』

『同じ時間なんだ』

『たまたま』

少しして。

『向かい側に誰もいなかった』

俺は画面を見た。

胸が詰まった。

『こっちも』

送った。

すぐ既読。

そして。

『会いたい』

その一言を見た瞬間。

全部壊れた。

半年間我慢していたものが。

全部。

翌週。

俺は大阪にいた。

改札を出る。

美咲がいる。

遠くから見てもすぐ分かった。

176センチ。

長い脚。

俺を見る。

美咲が泣いた。

俺も泣いた。

何も言わず抱きしめた。

「ごめん」

俺が言う。

「俺、美咲がいなくなるの怖かった」

美咲が泣きながら笑う。

「私も」

「仕事を選んだんじゃないって分かってた」

「うん」

「分かってたけど、怖かった」

「うん」

「ごめん」

美咲が俺の肩に顔を埋める。

「私もごめん」

「謝ることないよ」

「ある」

しばらく抱き合った。

周りに人がいることなんてどうでもよかった。

そこから遠距離が始まった。

楽ではなかった。

新幹線代。

仕事。

時間。

会いたい日に会えない。

電話しながら寝落ちする日。

喧嘩もした。

でも。

前とは違った。

「寂しい」

ちゃんと言った。

「会いたい」

ちゃんと言った。

「怖い」

ちゃんと言った。

* * *

二年後。

美咲が東京へ戻った。

俺は駅まで迎えに行った。

大きなスーツケース。

「ただいま」

「おかえり」

そして。

美咲が言った。

「ねえ」

「何」

「もう遠距離嫌」

「俺も」

「一緒に住まない?」

「住もう」

即答した。

同棲。

最初は楽しかった。

その後、現実が来た。

洗濯。

食器。

家賃。

ゴミ出し。

生活リズム。

「なんで靴下そこ置くの?」

「後で片付ける」

「後でっていつ?」

「後で」

喧嘩もした。

でも。

夜になると同じベッドに入った。

朝になると同じ家から出た。

それだけで良かった。

* * *

同棲から一年後。

朝。

8時12分。

久しぶりに、二人であの電車に乗った。

美咲が言う。

「懐かしい」

「まだこの時間混んでるな」

「変わらないね」

偶然。

最初に美咲が座っていた席が空いた。

「座れば?」

俺が言う。

「いいの?」

「どうぞ」

美咲が座る。

俺は真正面に立った。

吊り革を握る。

美咲が脚を組む。

「これも懐かしい」

「やめろ」

「なんで」

「思い出すだろ」

「何を?」

「分かってるだろ」

美咲が笑う。

電車が揺れる。

ほんの少しだけ距離が近づく。

美咲が俺を見る。

「ねえ」

「ん?」

「もう毎朝探さなくていいね」

「何で?」

「同じ家から出てるから」

俺は笑った。

そして。

ポケットに手を入れた。

小さな箱。

「じゃあ」

「?」

「これからもずっと、探さなくていいようにする?」

美咲の顔が止まる。

俺は箱を開ける。

「結婚してください」

美咲は何も言わなかった。

ただ。

泣いた。

めちゃくちゃ泣いた。

電車の中でのプロポーズ
――「これからもずっと、探さなくていいようにする?」

「電車でやる?」

泣きながら笑う。

「ここがいいかなって」

「バカ」

「で?」

「何が?」

「返事」

美咲が涙を拭く。

「する」

「する?」

「結婚する」

電車が揺れる。

二人で笑った。

* * *

数ヶ月後。

結婚式。

友達。

家族。

写真。

指輪。

美咲はドレス姿でもやっぱり俺より大きかった。

「身長差すごいな」

俺が言う。

「今さら?」

「写真で見るとさらに」

「かわいい夫ですね」

「やめろ」

二人で笑う。

披露宴の最後。

美咲が俺に言った。

「ねえ」

「ん?」

「最初に電車で会った時さ」

「うん」

「まさか結婚するとは思わなかった」

「俺も」

「膝当たっただけなのに」

「それ結婚式で言うな」

笑った。

でも。

本当にそうだった。

ほんの数センチ。

ただ偶然縮まった距離。

それだけだった。

それが。

名前を知って。

話すようになって。

好きになって。

付き合って。

一緒に眠るようになって。

喧嘩して。

離れて。

泣いて。

もう終わったと思って。

それでももう一度会って。

一緒に暮らして。

結婚した。

* * *

数年後。

朝。

「起きて」

美咲の声。

「あと5分」

「遅れるよ」

「今日何時?」

「8時」

俺は目を開ける。

時計を見る。

「やば」

飛び起きる。

美咲が笑っている。

「昔は8時12分の電車に間に合わせてたのにね」

「今でも乗れる」

「無理無理」

「走れば」

「朝ごはん食べて」

「はい」

玄関。

靴を履く。

美咲が先に出る。

俺は鍵を閉める。

「ねえ」

美咲が呼ぶ。

「何?」

「早く」

「はいはい」

並んで駅へ向かう。

昔。

俺は毎朝、あの車両に乗るたびに考えていた。

今日はいるかな。

あの席を見る。

いたら嬉しい。

いなければ少し寂しい。

でも今は。

もう探さなくていい。

朝8時12分。

俺がずっと探していた人は、

今日も隣で、

「遅れるよ」

と笑っている。

「8時12分の向かい側」美咲グッズ

物語を最後まで読んでくださった方へ。
あの“8時12分”のヒロイン・美咲が、グッズになりました。

短編小説『8時12分の向かい側』美咲グッズ

ベージュのコートと青いデニムが印象的な、美咲のオリジナルグッズです。
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